(1996年)平成8年4月1日、渡島管内の小学校教員から教頭に昇任して赴任した学校が、後志管内黒松内町立熱郛(ねっぷ)小学校。黒松内町は、私も家族も初めて訪れる町なので、不安と期待が入り混じった状態で、小学校に新入学する息子と4歳の娘を連れて転勤した。
熱郛小は、平成7年度に4名が卒業すると全校児童数が5名になり3学級が維持できなくなり教頭が配置されない状況であった。そんな折り、小学校1年生になる我が息子が入学すると、教頭の配置基準が満たされ、職員構成は校長、教頭、教諭2名の4名体制となるので、先生方や保護者、地域の方々から歓迎された。その歓迎ぶりは下記の写真からも頷ける。
また、熱郛小は、平成9年度で閉校となり、平成10年度には黒松内町の中心校(黒松内小)と統合される運命にあった。それ故、迎えてくれた方々から「地域の学校・我が母校・最後の教職員」であるという学校にたいする想い入れの強さを感受した。
新米教頭ではあったが、熱郛小の最後の教頭として校長の意を体し、先生方とスクラム組んで学校の幕引きにあたらなければという使命感がふつふつと湧いていた。
そこで、閉校までの2年間を閉校記念誌『熱郛の郷の学舎』のページをめくりながら回顧してみたいと思います。
平成8年度編
・中村校長(全体統括、5・6年の習字指導担当)
・佐藤教頭(4年生2名の担任、庶務・経理・PTA担当)
・松田教諭(1・3年生2名の担任、教務・研修・保健担当)
・佐藤教諭(5・6年生2名の担任、生徒指導・体育・学習担当)
・教頭夫人(技芸助手として5・6年生の家庭科担当)
・・・・・・・・全校児童数 6名
町の広報誌に掲載された学校だより
★1996平成8年11月 「もう一つの教室」
PTAのご尽力で春に作られたビニールハウスが、その教育的役割を十分に果たし今月撤去されました。
朝顔・夕顔・南瓜・トマト・メロン…14品目に及ぶ作物が教材として、季節折々の給食の彩として、時には昔懐かしい手料理となって…。
身近に作物があるのは心安らぐ思いがします。生命の営みに添うことができますし、それを作る人の思いも実感できます。
子どもたちは、登校すると真っ先にハウスに入り、「でっかくなったなぁ・赤くなったなぁ」と一人ボツボツ作物に語りかけている様子が印象的でした。あたかも「命」に語りかけているようです。天気のよい放課後等には児童を迎えに来る父母・児童・教職員とその家族の季節折々の語らいの場、憩いの場にもなったビニールハウス。
生育し続ける命のもとに、児童・教職員・父母が学んだもう一つの教室でした。
★1997平成9年3月 「一年を振り返って」
平成8年度も、3月24日の卒業式で224日間の授業日数を終了しました。
総勢7名のスタッフと5戸・10名のPTA会員が、全校6名のかわいい児童を中心にしながら、小規模校の特性を生かして『愛すること・信じること・待つこと』を指導の基本理念として頑張ってきました。
元気いっぱいの運動会。命の学習となったビニールハウス栽培や若鮎の放流。そして、故郷を知る「ふるさと学習」は、三世代交流を通して『白炭物語』という劇になりました。学芸会や町民センターでの公演は、発表力の向上と自信にもつながったことを嬉しく思っています。
力をためそうと、詩・標語・習字・絵画・作文等各種コンクールにも多数応募し、入賞を果たすこともてきました。来年度も共に手を取り、心を寄せ合って頑張りたいと思います。
平成9年度編
・中村校長(全体統括、5・6年の習字指導担当)
・佐藤教頭(1年生3名の担任、庶務・経理・PTA担当)
・松田教諭(2・4年生2名の担任、教務・研修・保健担当)
・佐藤教諭(5・6年生3名の担任、生徒指導・体育・学習担当)
・教頭夫人(技芸助手として5・6年生の家庭科担当)
・・・・・・・・全校児童数 8名
町の広報誌に掲載された学校だより
★1997平成9年6月 「感性揺さぶる体験学習」
若葉しみいる快晴のもと、春の遠足がありました。
出発式の『お話をしながら楽しい遠足にしよう。でも、時には静かに耳を澄ましてみてください。自然の「音」~鳥のさえずり、水の音、風のそよぎ…。触ってみてください~木肌の優しさ…。しっかりと観てください~草花や空…』係りの先生の素晴らしいお話を聞いて児童8名と5名の引率者は出発。
満足顔の3名の1年生の感想「ブナの木をさわったらすべすべしていたよ」「ヒトリシズカの花がきれいでかわいらしかったよ」「橋がある川で休んで、ささ舟をうかべて遊んだのが楽しかったよ」「モグラの死骸をみつけたよ。可哀そうだったので、踏まれないように、よけてあげたよ」「お母さんに遠足のことを話したら、行ってみたいなと言ってたよ」
感性が揺さぶられた素晴らしい遠足でした。
★1998平成10年3月 「閉校にあたって」
本校はこの3月で、96年の校史に幕を閉じようとしている。明治34年から地域の学校として喜怒哀楽を共にしてきた。小さな地域の小さな学校ではあったが、その愛着はことさら強く子も親も地域も先生も寂しい思いではある。しかし、元気に力強く再出発を誓い合った。形や心に残すことで…。自分たちが生まれ、育った『故郷』を皆で学び、皆で劇にして今後の生きる糧とした。テレビ出演という得難い体験をし、電飾された巨大ツリーは強烈に心に刻まれた。熱郛の教育を後志教育実践論文として形に残すこともできた。どれもこれも、今後に勇気を与える思い出としたい。
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